気分のよい秋

僕が少年だったことは一度もない。
22時半、便座に腰を下ろしたときに「僕」は顔を覗かせる。
終電まであと1時間15分、本日の業務時間は残り少ない。
だから、ぼくは毎回「僕」に言う。わかってるよ、君がそこにいるのは。
立ち上がると自動で水が流れる「僕」も一緒にFLASHされる。
デスクに戻り、PCの右端の時間表示を確認する。あと1時間13分。

 

その秋、ぼくはとても気分がよかった。
夏は悲惨だった。一日2時間しか寝る時間をとれなかった。
髪の毛が、すごい勢いで抜けた。机の上には「僕の毛玉」が2,3個いつも転がっていた。
体は中心を求めて終始ゆったりと回転していた。まっすぐ立っていられなかった。
ぼくの勤めている会社でポジションを得るには、頭より体の酷使が求められた。

(少なくともぼくはそのように信じている)

頭を働かせ続けられる強固な体を保持しているか否か。それが試されるのが昇進試験だ。

昇進試験に向け、体の酷使をしている間漠然と感じていたことがある。
ぼくはこの先”コレ”を最優先・最重要事項に据えてやっていくことはできない。

散々コレをやってきた。本来であれば眠りに費やされるべきだったいくつかの夜と、
休息に費やすべきだった休日を返上してきた。

ときにコレに没頭しているふりをして。ときにコレが与えるプレッシャーに抗うために。

 

コレは僕の人生の大半を占めていた。コレも僕の人生を求めていたように思う。
けれど、重要なことは、コレはぼくの人生ではない、ということだ。

そして、はっきりしているのは
コレに人生の大半の時間を費やし続けてもぼくは決して勝者にはなれないということだ。

そもそも、勝者になれる人間というのは限られていて、そいつら以外はみんな負け犬だ。
この先血を吐くまで、コレを続けても僕の名前は「チャンピオンリスト」には載らない。
 

だから、ぼくは強迫性神経症のごとく次から次へと読んでいたビジネス書を読むのをやめた。
代わりに推理小説を読み始めた。北欧ミステリー。次から次へと読んだ。
そしてスティーブン・キングを手にした。
ぼくの気分のよい秋がはじまった。

 

僕が気をつけていたことは3つ。すべて夏の終わりに読んだ原始仏教の本に影響された。


頭に浮かぶ曇りや暗さを連想される想念はただの妄想であり、浮かんだら可及的速やかに追い払うこと。
ぼくはそれらの考えを追い払うために「滅」という漢字を頭の中で思い浮かべるようにしていた。
ただし、口の両端を上に持ち上げたくなるような妄想はOKだ。「快」の感覚は喜んで受け入れるべき。
   
根拠なき責任感や、思考のチェーンサイクルにはまってしまったときは落ち着いて
次の言葉を思い出すこと。「真実・かつ有益なものはなんだ?」

 

「快」を感じたら、それを見過ごさずに意識すること。

スウェードみたいに乾いた風に通りで吹かれたとき「気持ちいい」とちゃんと感じること。
これにはなんの意味があるのか最初はさっぱりわからなかった。だけど効果はあったようだ。
最低な気分のときも、掃き溜めみたいな体調のときも「きもちよい」ものは気持ちいい。
それを受け入れる感覚が僕には備わっている。
1日の8割が憂鬱な気分、そしてその気分を引き起こした要因に大きく心が囚われていたとしてもに
100%黒く塗りつぶされるわけではない。
そのような気分のときだってぼくは「快」を感じることができるし、そちら側にこそ、
僕の人生は存在しているのだ。

その考えを一日に何度もひっぱり出すきっかけを習慣としてもつことは、おそらく

”ダークサイドに落ちないために”とても重要なことなんじゃないかと思う。
   

コレでを勝つことも、コレを利用して勝者のタイトルを得ることもできない。
でも人生の運転資金を得るためにはコレを続けていく必要がある。
日々の糧を得るために継続的に、息長くコレを続けていくことが大事なんだ。

 

ぼくはコレを愛したいと思っている。愛に損得勘定はない。コレを愛することができれば
ぼくの人生はもっと豊かなものになるだろう。